高田明美展 に行ってきました

先日、このブログでも紹介した、高田明美展に行ってきました。
http://d.hatena.ne.jp/queguay/20090331/p1

初日は、人が大勢訪れて大変だったそうですが、その日は平日の午後だったので、先客は一人だけ。小さなスペースですが、一歩入ると、すぐ「クリーミーマミ」のプレス原画が飛び込んできます。入場券は500円ですが、帰りに下のカフェで使えるコーヒー(350円相当)券になっているので、展示をじっくり見て、帰りはコーヒーでくつろぎましょう。

さて、高田さんの代表作である、「クリマ」「きまぐれオレンジロード」(まつもと泉原作)

パトレイバー」(ゆうきまさみ原作)などなどのイラストとオリジナルイラストが並び、すぐに高田ワールドに引き込まれます。

そして、これまた必見なのが、ジュエリー。銀ベースで、とてもカワイイ十字架、エンジェル、ハート、靴(マミの靴をイメージ)などをモチーフにしたペンダントやピアスなどが並んでいます。(お値段は1万〜5万くらいまで。結構手頃です。)

この日はラッキーなことに、高田さんご本人が、たまたまその時間だけ開場にいらっしゃっり、ちょっとずうずうしく声をかけてしまいました。

アニメの研究で、「クリマ」も研究している旨を伝えると、実に興味を持って下さり、しばしお話がはずみ・・・・うーん、実にチャーミングな女性でした。

先日「クリマ」のイベントがあったそうですが、そこに、母娘で来てくれた人が多くて、感動したというお話、海外でのファンが、最近は日本的になってきたお話、そして、今年はジャパンエキスポ(フランス)に行くお話などなど、「クリマ」以外にもいろいろと気さくに話して下さって、とても楽しい時間をすごさせていただきました。

女性から見てもすてきな女性を描き続ける高田さん。実はバービー人形も大好きで、会場には、所持品のバービーも飾ってありました。少女文化の勉強にもなる、アットホームな展示会でした。

 「少女」向けテレビアニメの研究

この連休に、「少女」向けテレビアニメについて、発表があります。関西方面の方は、出かけてみてはいかがでしょうか?

◆日時:2009年5月2日(土曜日) 14時〜18時
◆場所:花園大学拈花館(ねんげかん)1F118演習室
(詳しくは大学のウェブサイトをご参照ください。
http://www.hanazono.ac.jp/access/around
「2009年2月完成・新校舎」と示されている地点が拈花館の建
物と敷地になります。)
(最寄り:JR嵯峨野線円町駅」より徒歩8分)
◆内容:増田のぞみ(花園大学文学部創造表現学科専任講師・
    日本マンガ学会員)さんの研究発表
    「「少女」向けテレビアニメ研究の課題」
◆参加費:無料。
◆参加申込・問い合わせ先:
 E-mail: r-imai@hanazono.ac.jp
 Tel: 花園大学 075-811-5181(代)

 手塚治虫展

手塚治虫

江戸東京博物館の特別展「手塚治虫展」。初日はものすごい混雑でしたが、まだまだ始まったばかり。平日を狙って、じっくり見てみましょう。

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2009/0418/200904.html

展示は子供の頃の漫画から、家族写真、手塚の成績表などから始まり、人生の時系列に合わせて、作品が展示してあるものと、テーマ別(アトムとか火の鳥とか)に展示してあるものと、かなり広いスペースを取っています。

おもしろかったのは、アメリカのウィンザー・マッケイ作のアニメ「恐竜ガーティ」(1914年)(サイレントアニメ映画)http://www.nicovideo.jp/watch/sm658832
の原画を、手塚がもっていたこと。貴重です。(どうでもいいことですが、ガーティはメスです。本当はどうでも良くないのですが、その話はあとで)。

手塚が子供の頃見て感動した日本製アニメーション「くもとちゅうりっぷ」や「桃太郎 海の神兵」などの紹介もあり、幼少の頃から、まずアニメーションを作りたかったという手塚の意志がわかります。

父親はフランス映画が好きで、よく自宅で見ていたそう。裕福な家庭の恵まれた環境だったのです。

展示品は、特に本邦初公開というものはないのですが、手塚の友人、知人からの思い出の品など、最後のほうに飾ってあるものは、非常におもしろかったです。

展示場を出ると、お土産屋さんにたどり着く前に、手塚の生前のインタビューがあります。(NHKスペシャルか何かの番組で、10数分)。そこで手塚は「生きることのエロティシズム」ということを語っています。

戦争を体験し、死と不条理を目撃した反面、医者として生命を扱う学問をしていた手塚には、つねに「生きること」(死を通じての)とは何かを問われていたのだと思います。

エロティシズムとは、欲動であり、汚いモノ、きれいなモノすべてを含む、人間の営み。いかに生きることにこだわるか。それが、あれだけアニメーションに情熱を燃やした原点なのかもしれません。

MW(ムウ) (1) (小学館文庫)

MW(ムウ) (1) (小学館文庫)

この夏、実写映画化される「MW ムウ」。読んでから、観るか、観てから読むか・・・迷うところです。

 手塚治虫アカデミー2009 1.日本アニメの未来

手塚治虫アカデミー2009 1.日本アニメの未来

4月18日から、東京・両国にある江戸東京博物館にて、手塚治虫展がはじまりました。

それにあわせて、去年も開催された、「手塚治虫アカデミー」という講演が今年も3回開かれます。

http://www.bh-project.jp/static/jpn/image/event/film_photograph/tezuka_osamu2009.pdf

4月18日は、その1回と2回が行われました。

第1回 「日本アニメの未来」の会場には、けっこう男性のお年寄りと子連れ親子が目立ちました。

司会は、NHKの渡辺あゆみさん。そして進行は、手塚治虫の長男で、映像プロデューサーでもある手塚眞さん。パネリストは、アニメーション監督の杉井ギサブローさん、漫画家のゆうきまさみさん、(株)シンクの竹内宏彰さん、そして多摩美術大の片山雅弘さん。

:::::::::::::::以下、まとめと感想::::::::::::::::::::::::

まず、眞さんから「アニメ」についての定義がなされた。「アニメ」については、誤解が生じやすいタームであるが、ここでは便宜上、日本のアニメーションについて語るということで使うので、そこはご了承下さいとの説明がある。これは一般の人たちにはピンと来ないかもしれないが、けっこう大事な議論で、たとえば、TVで放映されるような商業アニメーションを「アニメ」と訳して、短編アニメーションのような商業ベースにあまり乗ってこない「アート・アニメーション」と区別して使う場合や、海外のように、日本製アニメーションを総称してANIMEとしたりする場合など、それぞれのコンテキストと、その言葉の運ぶ意味やイデオロギーなどを考えなくてはいけない、のである。

おもしろかったのは、杉井さんが語る「アニメ」の起源。実は、「鉄腕アトム」のテレビアニメーション制作で、あまり動いていない絵を見て、当時手塚に文句を言ったそうだ。

杉井「これじゃアニメーションじゃないじゃないか?」
手塚「これはアニメーションじゃなくて、アニメだよ」

杉井さんは、ここで初めて「アニメ」という言葉を聞いたそうだ。手塚の意味するところは、たとえば当時ディズニーで使用されていたフルアニメーションを「アニメーション」と呼ぶのなら、それとは全く違う考え方と手法を用いているから「アニメ」とするのだ、ということなのかもしれない。

手塚は造語がうまい。虫プロ制作長編の大人向けアニメーション映画「千夜一夜物語」と「クレオパトラ」を、「アニメラマ」と呼んだ。

「アニメーションとドラマ」をくっつけたものらしい。定着こそしなかったが、手塚がめざし、挑戦しようとした意図がうかがえる。

今回は、アニメーションの業績に関しての議論なので、漫画との比較があまりなかったが、興味深い点は、手塚眞さんが解説してくれた、漫画とアニメのキャラの差異。

たとえばアトムの角。漫画だと、どこを向いていようと、アトムの角は消えない。私たちは自発的に、二次元画面を見て、三次元のアトムを想像し、見えるはずであろう角を確認する。それが、製図的に合理性があるかどうかなどは、二の次だ。

アニメはそうはいかない。キャラクター設定をして、何人ものアニメーターが同じ絵を動かす(当時は手書きだったし)、ので、一定で共通の法則を作らなければならない。自然、漫画とアニメの顔が似ていないのは当然なのだ。(→これは、ゆうきさんの「鉄腕バーディ」のアニメで、ゆうきさんの漫画のキャラにアニメのキャラが似ていないことを、ファンから「作画崩壊」だと非難されたという発言を受けてのこと。)

漫画とアニメはいっしょくたに語られる傾向が強いし、漫画を動かすことから始まった歴史を考えると、仕方のないことでもある。その歴史の長短の差もあり、漫画研究よりすすんでいないのが、アニメ研究で、漫画の下位要素にカテゴライズされることも多い。けれども、小説と映画のように、まったく別のモノとして捉えて、研究をしていくべきである、ということを彼は示唆している気がした。

それから、アニメのプロデューサーである竹内さんは、手塚オタク、漫画オタク、アニメオタクを自負し、それが災いして、結婚を2回断られたという経験を持つ強者。彼が熱っぽく語っていたのは、日本のアニメが、ハリウッドに与えた大きな影響を、日本政府はまだわかっていない!ということ。(何かの政府の会議でそれを語ってきたばかりだとのこと)

彼が挙げたのは、アメリカでは、70年-80年代ビデオ(コピーのコピーの劣化したビデオ)を回して、日本のアニメ(「アトム」「マッハGOGOGO」などのTV放映したもの以外にも、日本から仕入れたモノ、ビデオでしかでなかったものなどあらゆる作品が、ファンの間で回され、楽しまれた)を鑑賞した世代が、今監督になって、スピルバーグ、ルーカス、キャメロン、バートン、ラセター、ウォシャウスキー兄弟らが、日本のアニメにインスパイアされた映画を生み出し、それが世界中の人たちに鑑賞されている、ということ。

これは厳密に言うと、アメリカ文化にインスパイアされた日本の作家たちが、これまたアメリカにそれを輸出したかたちにもなるという論もあるのだが(「ジャパニメーションはなぜ敗れるのか」大塚英志

、本来、文化交流というのは、そういった双方向的な動きの中でできあがるモノなので、日本すごいぞ、とか、日本が世界を席巻する、などという方向へ持って行くべきではないことは、自覚しておかなければならない。(竹内さんもそこまでは言っていない)

そして、私も大好きな片山さん。とにかく、彼はタレント性抜群。絵もうまいし、トークも巧い。きっと講義も楽しいんだろうなと、いつも思っている。

片山さんは、手塚を尊敬し、ともに仕事をしたこともあるという立場で、しかも後輩を育てるということで、日本のアニメーションで重要な、ドラマ性やキャラクター性を大事にしていきたい、と語った。手塚が残した作品には、あらゆるドラマがあり、あらゆるキャラがあり、それをあらゆる手法のアニメーションで残している。手塚を超えるような発想を、心がけて行かないといけない。

手塚が、なぜアニメーションを作りたがったのか。話を聞いていて、絵を動かすだけでなく、動くということが、生命につながるからだと思ったのかもしれない、と私は思う。「生きること」を、美辞麗句でなく、時には狂気、どろどろした欲望、時には慈愛、犠牲などで訴えていた手塚の作品は、これからも若い人たちに影響を与えていくのだと思う。

 高田明美展

イベント 高田明美

閑話休題。研究会報告には、実は、パート3「アニメブーム」を語るというのが、あったのですが、これはかなりまとめが難しいので、のちほどアップします。

今日は『クリィミーマミ』や『きまぐれオレンジロード』のキャラ設定でもおなじみの、高田明美さんの展覧会のお知らせ。

http://www.takada-akemi.net/news/news2009-GoFa.html

4月29日-5月10日
GoFa 渋谷区神宮前5−52−2 青山オーバビル2F
500円

ジュエリー展示もあります。スケジュール表に入れておきましょう。

高田明美画集 GIRL'S MAGIC

高田明美画集 GIRL'S MAGIC

 日本アニメーション学会 歴史・理論研究会 報告3

日本アニメーション学会 歴史・理論研究会 報告3

前回の続き。

もうひとつ分析されたのは、『魔法の天使クリィミーマミ』だ。

[rakuten:book:12017916:detail]

最近再ブームを起こしているこの作品、放映当時は、「女性の時代」ともてはやされ、新しいより強い自立した積極的な女性像が、メディアにあふれる一方、愛人バンク事件、女子高校生コンクリート詰め殺人事件、女児連続誘拐殺人事件など、80年代の女性と女性のセクシュアリティをめぐる状況が注目されていた時代だった。

マミの制作者側のコンセプトは、ラブ・コメ路線で、アイドルブームに乗っかる形での、アイドルへの変身(=労働の顕在化)そして、同じ労働でも、両親の労働を特に描くというものだった。魔法少女ものの中には、父親が正規雇用者として、主な稼ぎ手であり、物語に不在・不可視化し、母親は専業主婦、もしくは自宅での勤務などの設定がしばしば見受けられる。しかし、この作品は、ファミリービジネスで、両親の労働を主人公優(10歳)が手伝う、という労働の視覚化と、自分もアイドル歌手となって、労働し、大人の社会に入り込むという労働の視覚化の両方がなされている。

また、ボーイフレンド俊夫が最初から設定され、俊夫が、いわば理想化した自己である、変身後の「大人」のマミに熱狂し、現実の自己である優は、引き裂かれた自己を抱え込む構図となっている。

身体表象も顕著で、マミの身体(長い足、かわいい服、ふわふわとした髪)は、日本の価値観として構築されていた「カワイイ」を表象している。

これらのテキスト内の表象を、当時小学生だった視聴者はどうみるのか?それが、視聴者の質的調査によって、垣間見られる。発表者は、インタビューによって、今は成人となっている当時の『メグ』と『マミ』の女性視聴者の価値観、ジェンダーにまつわる問題、ファッション、生き方などを探っていく。

リサーチはまだ途中だということで、途中経過としての視聴者の意見がいろいろとだされた。圧倒的に「カワイイ」身体、ファッション、それにともなう、魔法と魔法の制御が言及された。魔法を使えることよりも、魔法を温存して、いかに努力するか、のほうへの関心が強いのも、発見だった。それでも、これが超能力だったり、ただの妖怪変化だったら、まったく違う文脈になっただろう。このあたりは、これから解明されるべき問題だ。

最後に、「女性向けジャンル」に関するテレビ学の問題系が列挙されたが、こと『魔法少女」ジャンルに関しては、フェミニスト・テレビ学は、有効だと思う。というより、この枠組みで研究されることが、まだ日本にはないので、結果が楽しみという感じである。

フロアからは、男性視聴者についての関心もあったが、それはこれからのプロジェクトとして計画されている。ちまたには、ロリコンとして魔法少女を消費、サーキュレートする言説があふれているが、果たして何がどう違うのか?これからも、このジャンルはいろいろな可能性を提供してくれるだろう。

 日本アニメーション学会理論・歴史研究会 報告2

日本アニメーション学会理論・歴史研究会 報告2」

魔法少女TVアニメーション番組の「フェミニスト・テレビ学」的読みの可能性」 須川亜紀子

第二部は、社会文化的な考察を交えた、「魔法少女テレビアニメーション」の分析と、女性の視聴者の分析に関する発表。

まず、フェミニズムジェンダーというのは、日本では特に誤解が大きく、フェミニズム=男性批判、ジェンダー・フリー=男らしさ、女らしさの消失、と受け止められる例が非常に多いので、概念と用語を簡単に紹介。ここで強調されるのは、フェミニズムは英語ではfeminismsと複数形で表されるのが、通例となってきていること。それは、フェミニズムの中でも、ラディカル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム、リベラル・フェミニズムなど、いろいろな立場と思想があるためだ。今やフェミニズムを一枚岩的に語ること自体、ほとんど無理である。

ジェンダーは、生物学的な性であるセックスと区別するために用いられた用語であるが、今、ジェンダーは言説に先んじて存在するようなものでなく、行為遂行によって構築されるものだという考え方が主流になっている。便宜上、「社会的に構築される性別(広辞苑)」と日本語で説明したり、そういう意味で使用されている例もあるが、厳密には、セックスを自然化するために用いられる装置であり、セックスもまた、構築されたものなのだ、というJ.W.スコット、J.バトラーらの論説がある。

発表者はこれを支持するが、実際、日本では(おそらく世界の一般的に考えられているものでは)、ジェンダーは社会的に作られる性だと広く理解されている。しかし、発表者は、ジェンダーを装置として見、ジェンダーというフィルターをかけると、作品分析や視聴者分析にどのような意味を生成するのか、に注目し、あえて、『ジェンダー本質主義的」な「女性向けジャンル」としての魔法少女テレビアニメや「女性視聴者」にメスをいれる。

テレビ学で注目するのは、実際の個々の視聴者とその視聴体験である。精神分析学的映画理論で多く見られた、テキスト内に構築される観客(spectator)ではなく、どうテレビを見、どう消費し、反応するのか、実際に見ている人が重要になってくる。

では、『魔法少女テレビアニメ番組』とは何か?発表者は、これを呪文を唱えて発動する魔法を使う、平均12歳の少女が主人公の作品としている。その特徴としてあげられるのは、機能している家族(両親は健在)、隠された高貴な出自である魔法の国のお姫様、もしくは中上流階級の娘、洋風でしゃれた一軒家に住んでいて、都市部に居住する。年少者(弟または妹)またはペットをもつ。などがあげられる。

また、そのジャンルを取り上げる価値としては、少女向け番組としての放映の歴史が長く、長期的スパンで視聴者調査をするのに、都合がいいこと、西洋のアイコンである魔女を使って、魔法という超自然能力を駆使するというテーマで一貫している例が、他国にはほとんど見られない、という理由が挙げられる。

さて、『魔女っ子メグちゃん』(1974-75年)である。

魔女っ子メグちゃん DVD-BOX1

魔女っ子メグちゃん DVD-BOX1

[rakuten:geoeshop:10579707:detail]

この作品は、東映動画作で、主人公は、魔法の国の時期女王候補で15歳のメグとノンが、人間界で修行し、その修行の成果でどちらかが女王に選別されるというもの。メグもノンも、人間界に降り、人間と結婚した魔女の家庭に、娘として暮らし、学校でも家庭でも、いろいろなことを競いあうことになる。

企画段階では、1)無国籍、2)ライバル、3)おしゃれが基本コンセプトだったというこの作品。無国籍性といえども、街並みや主人公たちが住む家はおしゃれで、日本人の考える欧州風。メグはひらひらのミニスカートにハートのペンダントを身につける、かわいいけれどもおてんば(弟のいたずらに対してなど、男言葉をよく使う)、ノンは青いアイシャドーでバイクを乗り回すクールなキャラクターに設定されている。

注目すべきは、セクシュアリティの表象だ。メグは常に弟の性的からかいの対象となっていて、異性愛主義的性的欲望の対象として表象される。ノンは、からかいの対象としては設定されないが、大人の身体を背負う少女として設定される。(アイシャドーなどはその例)

例として、第8話「わがあこがれのメグ」があげられた。メグ、ラビ(弟)、アポ(妹)がプールに遊びに来る。メグに一目惚れしていた、外国の大使の息子ダニーが、メグを追ってくる。ダニーに恋心を抱くノンもこっそり後をつけている。

ここでショット分析が行われた。ラビは姉メグの着替えを盗撮しようと大きなカメラを抱えている。(しかし、入った時には着替えが終わっていた)。相変わらず、異性愛主義的性的欲望の対象として表象。また、ダニーがメグの泳ぐ姿を見つめる次のショットで、ノン(ビキニ姿)がダニーを見つめるショットがつづき、欲望の視線が明確に表現されている。

ダニーとメグは、結局デートすることになるのだが、ダニーが急に手を握ってきたことに、メグは驚き、拒否をする。異性愛主義的性的欲望の拒絶と理解することができる。これだけなら、単なるロマンス物語なのだが、このシーンのすぐ後に、またもやノンがやってきて、ダニーに迫るシーンが挿入される。

ダニーはロマンティックな雰囲気を魔法で作り出し、迫ってくるノンを拒絶する。同じ異性愛主義的性的欲望の拒絶なのだが、のちに、メグがダニーを受け入れるのと対照的に、ノンは拒否されたまま、別れを迎えるのだ。

男性から女性への恋愛至上主義であれば、受容可能なものとして表象されるのだが、ノンの例のように、いくら「本気だったのに!」と号泣しようと、女性から男性への同じ行為は、受容されないことが象徴されている。

この作品が放映された70年代というのは、『アンアン』『ノンノ』などのビジュアルに訴える女性雑誌が創刊し、経済的に自立し、一人暮らしする女性の暮らしを特集したり、女性の一人旅特集をしたりと、女性の自立が称揚され、表象され、洗練されたいいものとして価値観が構築されていった時期だった。同じく、女性の高学歴化、長期就業化、晩婚化も進み、女性が社会進出することが、日常となりつつあった時期にあたる。

第二波フェミニズム運動の初期段階であり、身体やセクシュアリティに関しても、たとえばピル解禁に対する運動などもあった(しかし、74年厚生省はピル解禁を不許可としている)。

性的対象としての少女の身体と、選択権の問題について、『魔女っ子メグ』は何度もそれを問いかけている。

(つづく)