「サイボーグ009」作品分析

 『サイボーグ009』作品分析 1

石森章太郎(=石ノ森章太郎)の同名漫画が原作の、アニメーション『サイボーグ009』は、1966,67年に映画化されたのち、68年には初のテレビアニメシリーズとなって登場しました。のち、79年にTV化、80年に映画化、そしてまた2001-2年にデジタル技術を駆使した原作絵に忠実なテレビアニメ化されるという、まさにロングランの人気作品です。

筆者も大好きなこの作品を、フェミニズムの観点から作品分析してみることにします。

どの時代のどのストーリーをピックアップするかによっても、若干違ってきますが、今日はキャラクター分析を中心にしてみましょう。

斉藤美奈子さんが著書『紅一点論』で論じたように、80年代くらいまでのアニメにおいて、女性というのは大勢の男性のチームの中にただ一人配置されるか、もしくはヒーローの補助としてサブの役割に配置される場合が多くありました。いわゆる少女向けアニメとして企画された、少女が主人公のアニメ(例えば魔法少女もの)以外、圧倒的に少年が主役のアニメが多かった時代、女性が活躍できるのはごく限られた場所でした。

初の国産TVアニメである『鉄腕アトム』(1963)でも、ウランという少女キャラがでてきますが、ロボットで、かなり弱くておてんばな妹、という典型的な妹系の可愛さの表象でした。

そして、『レインボー戦隊ロビン』(1966)では、これまたロボットの女性キャラがでてきますが、看護婦という設定なので、伝統的な性役割である介護、世話、家庭と女性性が結びついた形で表象されていました。

この系譜は、『宇宙戦艦ヤマト』で、第一艦橋で通信リーダーまでやるほどのエリートだった森雪が、なぜか看護婦の役割も兼ねるというスーパーウーマンとして配置されたのと似ています。このアンチテーゼが『機動戦士ガンダム』となるのですが、その話はいずれ後述します。

さて、『サイボーグ009』での紅一点は、フランソワーズ・アルヌールというフランス国籍の女性です。彼女は元バレリーナ(美しさの象徴です)ながら、誘拐され、改造されるという設定ですが、彼女に課せられた役割が「探査」です。耳と目を改造されただけなので、戦闘能力は他の8人と比べてかなり劣ります。そして、さらに与えられる役目が、001という赤ん坊サイボーグの子守、つまり「母親」役、そして009という9人の中で最強のサイボーグの「恋人」役なのです。

女性性と母性は、不可分に結び付けられていると考えられた時代ですから、そういう表象がでてくるのは自然なことです。それを、現在のフェミニズムの立場から批判するのは、あまり生産的な議論ではありません。筆者も、何が表象されていたか、よりも、どう表象され、どう受け入れられたか、の方に興味があります。

女性表象が「母」(聖なるもの)「娼婦」(俗なるもの=性欲望の対象)の両方を請け負うのは、アニメにかぎったことではありません。このあたりは、精神分析理論を援用したほうが、容易に説明できるでしょう。でも、今回は、あるストーリーを分析することで、フランソワーズの機能を分析することにします。それから、視聴者がそれに対して、どのような反応を見せるのか、その一端を垣間見てみようと思います。

サイボーグ009 [DVD]

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