存在論ー人間、魂、精神と鋼の錬金術師

アニメ「鋼の錬金術師」(略して「はがれん」)は、同名マンガ原作のアニメ版で2003−4年に放映された。原作はまだ連載中であるが、アニメでは途中主人公のエルリック兄弟の幼少から15歳くらいまでの出来事が描かれている。

一世を風靡したこのアニメ(とマンガ)の取り扱うテーマは実に様々だが、今回は魂と精神と身体、つまり自分の存在について、注目してみたい。

鋼の錬金術師」は、架空の世界が舞台。軍隊や少数民族国家、汽車、車がでてくるが、飛行機はないので、19世紀あたりの世界観に近いだろうか。しかし、物語の終盤で、これが私たちがいる世界のパラレルワールドだということが判明する。

この世界では、錬金術という超能力が使える人物が多数存在し、国家試験をパスすると軍隊所属の国家錬金術師として、特権を得る。主人公エドワード・エルリックエド)は、幼少の頃から弟アルフォンソ(アル)とともに錬金術を本で学び、自由に使える少年であった。父は有名な錬金術師だったが、蒸発。無理のたたった母が亡くなったせいで、エドは父に反感を抱いている。

残された幼少の二人は錬金術の修行をし、禁忌であるはずの死んだ人間の再生、つまり人体練成を母の身体で行ってしまう。その結果、エドは片足を失い、アルは身体を失う。自分の右手の代わりに、かろうじてアルの魂は、そばにあった鎧に定着し、エドとアルは、失った身体を元に戻せるという「賢者の石」を捜すため、旅に出る。

この時点で、一つの問い、「魂とは何か」に直面する。片腕と引き換えに、アルの魂を鎧に定着させる。ということは、アルの存在とは、魂=記憶ということになる。

「我思う、故に我あり」(自分がここにいると自覚することで、私は私の存在を証明する)というように、太古の昔から、自分とは何かという問いを人間は続けてきた。アニメの中には「我殺す、故に我あり」と自慢げに存在証明する連続殺人鬼が登場する。彼はエドたちの活躍で逮捕され、軍の研究所で魂だけを抜かれて、鎧に定着させられるという、いわばアルと同じ存在になっている。

それでは、自分とは、この魂であり、身体はただの容器にすぎないのだろうか。

この問いは、すでに人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で提出されていた問いでもあった。もちろん、他のアニメ(例えば60年代の「サイボーグ009」でも、機械と人間の間であるサイボーグである自分に悩む主人公たちがいた)でも提出された問いであるが、1995年以降のアニメに特徴的なのは、科学技術が発達して、クローンを生み出せる現在、人間のクローンを作る事が可能となり、それを実現させないところにとどめるのは、もはや人間のモラルでしかない(法律ができてもやるひとはやる)曖昧なものになってしまったことである。

また、情報メディアが発達し、誰もが同じような情報を共有し、誰もが同じように情報を処理するようになると、記憶の並列化は単純に可能となり、それに準じて自分の個としての価値が感じられなくなっていく。若者の中で、自分を傷つける(リストカットやネット自殺)や他人を傷つける(いじめ、暴行、殺人)を通して、自分の存在価値を確認しようとする方法は、まるで、「はがれん」に出てきた殺人鬼のやり方そのものなのだ。

自分を自分と確認できるものが、身体でない以上、(しかし身体の問題は魂や精神の問題と不可分であり、単純に切り離せない)自分を自分と確認する方法は、何か?

エヴァ」では、過去を持たないクローンであるレイが言ったのは「記憶」であった。「はがれん」にもそのことが言及される。