フェミニスト・テレビ学 その2

テレビ学とフェミニズム 2

前回は、T.モドレスキーについて触れました。昼メロは女性視聴者に向けに作られました。当然、視聴者は女性とみなされ、想定された女性の主体(これも難しい言葉ですが、「自分自身の意思をもって動く人の精神」くらいの意味で考えてみてください)が一枚岩のようにみなされていました。

もともと女性は家庭や社会で抑圧されているということが、当然のように考えられていたので、女性の主体ということを考えるのは、重要なことでした。その背景には、家父長制なるものが存在していたからです。(以下、ラディカルフェミニズムと呼ばれる考え方に基づく、家父長制下の男性による女性支配を前提にしたお話です)。

日本人なら、これはわかりやすいかと思います。男性(家庭では父親、年長の男性)が女性を使い、下に見、抑圧する、と本当に乱暴に単純化してしまえは、「家」「父」による「女性・子供(女児)」を統制、抑圧、支配する制度だったわけです。これは、資本主義には、非常に有効なものでした。労働力の再生産(つまり子供を産み、育てる)の安定供給ができるわけですし、従順な労働力も育つゆえ、社会に出ても、実戦的に使用が可能です。また、女性の性を制限するわけですから、「家」の存続が安定します。つまり、男性が妻以外の女性と関係し、子をもうけても、養子として迎え入れたりすることはできても、女性が夫以外の男性と関係し、子をもうけても、それは家の長たる夫の遺伝子をもっていない、つまり「家」とは関係のない子であるため、養子とすることはできず、「家」制度が揺るいでしまいます。(大正時代までは、女性はそんなことすると即離縁です。男性にはそれまで貞操が義務付けられておりませんでした)

程度の違いこそあれ、英国米国で、抑圧されていると感じている女性にとって、昼メロに出てくる女性像を通じて、家父長制的主体(被支配されていると感じる)を超えた女性の主体を「構築」するとモドレスキーは考えたわけです。

ここで、「構築」という言葉にも意義があります。それまで、自然な当然なものとして、考えられていたもの(例えば、わかりやすく言うと、性別役割とか、ジェンダーイメージとか)は、実は生まれつき存在するわけではなく、「つくられた」ものだ(だから解体も可能)という考え方を暗示しているからです。主体だって、生まれつき当然持っていたものではなく、長い歴史の中でだんだんと作られ、定着し、自然視されていったものなのです。

視聴者に関して、以前にもとりあげたマーヴィーや、パム・クック、そしてこのモドレスキーはいずれもジェンダー化された観客に関心を寄せていました。でも、とりあげる映画のテキスト(内容)分析だけでなく、コンテキスト(語られ方、観客の受け取り方、利用のされ方)なども考慮しなければならない、と論じたのが、A. クーンという人でした。

クーンはWomen's Genres (1984)で、映画の観客とは違う、テレビの観客をソーシャル・オーディエンスと呼びました。これは以前、観客の説明で、スペクテイターとヴューアー、オーディエンスの違いを説明したときにも触れたお話です。

でも、映画を観る人がスペクテイターで、テレビを見る人がソーシャル・オーディエンスだという単純なことを言っているわけではなく、スペクテイターというのは、見た映像に対して、意味を創り出すプロセスと快楽に従事する(はまり込むって感じでしょうか)時になるもので、ソーシャル・オーディエンスになるときは、映像が生み出す表象(意味やイメージ)を消費する社会的行動に参加したときだと言っています。

つまり、何にどうかかわっているか、というのが重要なのです。以前、便宜上、精神分析批評での映画の観客はスペクテイターとして話を進めましたが、実はもっと深い意味があったわけです。

で、テレビを見ている人は、たとえば、流し見、ながら見、つまみぐい見など、あらゆる見方をしている可能性があるので、テレビの視聴者のほうが、よりその視聴スタイルに注目がいくのです。

でも、ここでもまだ、「女性視聴者」というくくりで想定されているのは、仕事をしなくてもいい、昼間家にいてテレビを見られる中産階級の女性、そしてその大体は白人女性だったのです。でも、仕事に就けない(失業中)の人だっているわけだし、黒人のひと、アジアのひと、ヒスパニックの人、みながみな同じように意味を解釈して、消費するわけではありません。こういった差異に注目した研究が、それからどんどん出てくるわけです。

もう少し、こういった背景を説明していきたいと思いますが、少しずつ実践例としてアニメ作品も取り上げていきたいと思います。