フェミニスト・テレビ学 その1

テレビ学とフェミニズム

前回まで、本当にざっと映画理論からテレビ学にいたる流れを追っていきつつ、その違いを少し解説しました。今日は実際、フェミニズムはテレビ学で、どのようなアプローチをしていたのか、を見てみましょう。

1960年代初頭(50年代後半も含め)からのフェミニズムの運動は、「第二波フェミニズム」と呼ばれます。第一波が、権利獲得運動、つまり、男性にとっては当然得ていた選挙権や雇用の権利は、女性にはなかった時代、男性に許されている権利を女性にも!という運動だったのです。でも権利を獲得しても、男女の格差はあらゆるところで現れます。それは今日でもまだまだ解決したわけではありません。

第二波フェミニズムは、得た権利を発展、開発、そして女性にとっての力となるように、さらに推し進められた運動です。男性に対して「女性」という共通認識を作って、権利を得るまではよかったものの、同じ女性でも、人種、国籍、階級、セクシュアリティなど、当然差異があります。そんな差異に対しても、さまざまな考察がなされたのがこの頃のフェミニズムでした。

フェミニストテレビ学で注目されたのは、今まで「女の見るもの」「お涙頂戴もの」として、取るに足らないと思われていた、昼メロでした。

ニュース研究などが進むのに、なぜ昼メロは注目されないのか?それは、研究する価値がない、と思われていたからです。そのあたり、アニメも似ているかもしれません。ひと昔前までは、アニメなど研究するにたらない素材だったわけですから。

もとい、昼メロ。英語ではソープ・オペラと呼ばれます。名前の由来は諸説ありますが、アメリカでこのドラマのスポンサーが石鹸会社だった、というのが、一番多く聞かれる理由です。

さて、その昼メロ。1979年にははやくもT.モドレスキーという人がソープオペラについて論文を書いています。('The Search for Tomorrow in Today's Soap Operas')。

彼女の注目した点は、昼メロに出てくる女性像、母親像と実際の視聴者との差異でした。昼メロによくある、どろどろの愛憎劇。でも、そこには善と悪があり、家庭で理想的な母として期待される視聴者は、悪の存在を怒りの捌け口として利用するというのです。たとえば、普段は自分が味わうであろう不安、苦悩、怒りなどを、ドラマの中の男性(女に裏切られたり、裏切った報いを受けたり)の中にみることによって、カタルシスを覚えたりすると捉えています。

モドレスキーは、その後様々な論文を発表しますが、70年代にテレビの中の昼メロに注目したのが大きなポイントでしょう。まだこの論文では本格的な視聴者研究はしていないのですが、昼メロに注目したことは、その後の流れを決める、重要な分岐点だったのです。