「ローゼンメイデン」とガイノイド

ローゼンメイデン」とガイノイド

アニメ作品「ローゼンメイデン」を取り上げたいと思う。

ローゼンメイデン 1 [DVD]

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ローゼンメイデン」は第二期まで放映され、特別篇も含めると3作存在する。第一期「ローゼンメイデン」は、ローゼンメイデン(薔薇の乙女という意味。また人形師ローゼンに作られた女の子の人形も含意)と呼ばれる幻の人形が、ある日ひきこもり少年ジュンのところへやってくる。しかし、この人形、人間と同じように話し、食べものを食べる。最初の人形「真紅」は、ジュンに自分のミーディアム(媒介者という意味)として契約し、家来として仕えるよう命令する。その後、ぞくぞくとローゼンメイデンの人形達が現れる。

第二期「ローゼンメイデン トロイメンドträumend(夢という意味)」では、ローゼンの弟子が作った人形が、完全なる少女「アリス」を目指して戦う(アリス・ゲーム)ことを扇動し、ローゼンメイデン6体全員を倒す、という物語の核心が描かれる。

特別篇「ローゼンメイデン オーベルテューレouvertüre(序曲という意味)」は、第一期以前、ジュンに出会う前の真紅と第一ドールであり真紅を憎む「水銀燈」の出会いが描かれる。

マンガ大好き麻生太郎氏が「ローゼンメイデン」を読んでいたという噂から、一時期マスコミでも騒がれた作品なので、題名くらいはご存知の方も多いだろう。

さて、いろいろなテーマから語られるこの作品だが、今回はガイノイドという点で分析してみたい。

ガイノイドとは、女性型のアンドロイド、つまり女性の形をした(機械)人形という意味である。(ちなみにアンドロイドはもともと男性の機械人形を指す。)女性型の人形というと、よく語られるのは、ギリシャ神話の「ピグマリオン」という物語だ。

ピグマリオン」は、ある女性に恋し、その女性を思うがあまり、その女性そっくりの人形を作る。女神ビーナスが彼を哀れみ、人形に生命を与え、その人形が人間となって彼の前に現れる。(他にも諸説あり。参照須川亜紀子「純愛、自己内省、バウンダリー・フリーー押井守るの『イノセンス』にみるガイノイド表象(『アニメーション研究』第6巻、小野俊太郎ピグマリオン・コンプレックス』ありな書房)。

「理想の女性」を作る男性、その理想を手に入れる男性、ということで男性の視点中心に語られることの多い、ガイノイド。しかし、「ローゼンメイデン」は、もう少し複雑な構造を持っている。

まず、ミーディアムであり、家来であるジュンと人形達との関係。特に真紅とジュンの関係を見てみよう。ジュンは中学受験に失敗して、学校へ行くのをやめてしまったいわばひきこもり少年。両親も外国へ転勤し、実質姉のノリがジュンの面倒を見ている。「エヴァンゲリオン」のシンジと同じく、「自分は親に捨てられたいらない子」であり、みんなから疎まれ、嫌われる「生きている価値のない人間」だと思っている。そのくせその怒りを屈折した形でしか表せず(例えば姉への暴言、DV)、前にも先にもいけない状態でいる。

そんなジュンを真紅は「お姉さん的視点」で時には突き放し、時には褒め称え、徐々に彼の心を開いていく。ジュンがもっとも感動したのは、傷つきながらも戦う真紅の姿だった。「生きることは、戦う事でしょう?」という言葉に導かれて。

いわば、自分より劣る存在(人形/人間、女性/男性)が、現実に直面し、逃避せずに戦っているという姿勢が、彼の人間性と男性性を回復する契機となるのだ。この関係は、「エヴァンゲリオン」のシンジに対するレイの関係に似ている。レイも実質人形(クローン)なので、その類似性は高いが、重要なのはレイがシンジの母のクローンとして、欠如していた母を補完する役割を担っていたのと同じく、真紅もジュンの欠如している母を補完していると言えるだろう。

ここで、問題になるのは、ジュンのエディプスコンプレックスなのだが、複雑なのはそれほど自立した女性真紅もまた、「お父様」であるローゼンに会うために、愛されるために戦うという宿命を持つ、「ダディーズガール」だということなのだ。

父の欠如した真紅たち(真紅とライバル水銀燈との関係もまた複雑となる)は、結局姉妹で戦い合い、姉妹を殺す(人形のタームではジャンクにする)。第一期はジュンの癒しの物語だとしたら、第二期はガイノイドであるローゼンメイデンたちと、彼女たちのファーザーコンプレックスの物語だといえるだろう。

第二期は、ピグマリオンのテーマが再出現する。アリスになるには、完全でなければならない。いわば、ローゼンにとっての「理想」である。その理想になることが、父の愛を得られることと同じ意味であるため、一見ピグマリオン(もしくはそれをベースにした映画「マイ・フェア・レディ」)のように、彼女たち自ら「理想」を内面化していく。それが将来の夫でなく、父親というところが、また複雑化する要素なのだ。