「超銀河伝説」の観客の反応

 『サイボーグ009』 作品分析3

前回までの作品分析は、ひとつの解釈でありますが、この場合、実際その映画を観る人によって、その捉えかたは様々です。こちらが考えていた分析とまったく違った見方をする場合や、その解釈に新たな解釈を加えてくれる場合など、反応は様々です。このオーディエンス調査と作品分析の比較考察が、私が行っているアニメーション学です。

調査をするのには、時間がかかります。調査の方法としては、アンケートなどであらかじめ多数の人に意見を聞き、その後、集団もしくは個人的にインタビューして、さらに詳細をうかがうというのが、基本的な手順です。

アンケートで出た集計結果をパーセンテージで示すのが、量的分析と呼ばれます。これの特長は、大多数の意見の方向が見えることです。けれども、欠点は、個々人の意見が見えてこないことです。

インタビューなどで個々人の意見からの分析は、質的分析と呼ばれます。パーセンテージでは見えてこない、詳しい意見を聞くことができます。

今回、特別アンケートをとるという方法ではないのですが(いずれ本格的に調査してみたい素材ですが)、公開当時の意見を参考に、私が行った分析に対し、女性観客がどのような反応をしたか、その一例を見てみましょう。

まず、当時中学1年の女性の例。
彼女は母親を早くに失くし、姉とともに家事をする毎日を送っていました。家庭で母親役になっているせいか、女性キャラに対する見方は、少し違っています。まずタマラに対して、助けてもらった相手にすぐ感情移入するのは、安易だといいます。性的欲望の対象に対する拒否反応とも取れます。でも、003に対しても、戦わない(役に立たない)ことに対して、冷めた意見を持っています。母親役=生産的行動という解釈であります。

二人の女性キャラに反発し、誰に感情移入したかというと、004です。彼は全身武器に改造されたドイツ人で、それに対して一種あきらめの気持ちをもっているキャラです。恋人を死なせたという暗い過去もあり、死に場所を探しているようなニヒルな人物でもあります。彼はこの映画の中で、自らを犠牲に皆の危機を救うという役割をします。

彼女の感情移入は、「自己犠牲」です。みんなのために自己を殺す事に美的感覚を持つという、きわめて日本人の価値観に近いのですが、実は「自己犠牲」は、母親役のシンボルでもあるわけです。一種自己犠牲をしたタマラに対しては否定しても、「自己犠牲」として、他者に貢献したという男性キャラに対しては、憧憬に似た感想をもっているのです。

ここから推察できることは、「自己犠牲」としてタマラが行ったのは、009への愛でした。これは個人的な感情の結果であります。004の行った自己犠牲は、仲間(多数)のためです。性的な要素が入らない分、美しく感じられ、価値を認められるのだと分析できます。

無償の愛と自己犠牲。奉仕と労働に従事するけれども、性的欲望の外にある母的なものに対する肯定、ととらえることができるでしょう。彼女の場合、004が最後人間として甦ることに、嬉しい半面、「どうして人間として生き返るのか」と疑問をもっていました。しかも彼は再びサイボーグ化を願い出るので、それもまた疑問だという意見でした。

これは一つの例ですが、このように、見る人の立場、環境、視聴状況などをかんがみて、作品分析との比較対照を行いながら分析すると、違ったものが見えてきます。これが、また面白いところです。

紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 (ちくま文庫)

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 前々回に言及した、斎藤美奈子さんの本です。男性向けアニメの中の女性キャラの画期的研究です。