映画 BLEACH 1 MEMORIES OF NOBODY

劇場版 BLEACH 第一弾 MEMORIES OF NOBODY

年末年始は、アニメ映画のTV放映が多かったですね。以前見たことのあるこの劇場版BLEACH第一弾も、あらためて見直しました。

BLEACH」というのは、『少年ジャンプ』という雑誌に連載中の久保帯人の漫画です。それを原作に、スタジオぴえろという会社によってアニメ化され、現在は関東では毎週火曜夕方に放送中の、人気アニメです。

詳しい情報は、http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/bleach/ 
でどうぞ。

さて、映画です。ざっとあらすじを言いますと、主人公黒崎一護の暮らす空座町(からくらちょう)に、とつぜん白ずくめの三角顔の妖怪のようなものが現れ、死神(亡くなった人の魂を管理するソウル・ササエティと呼ばれるあの世の防衛隊みたいな人たち)の代行として一護が戦っていると、とつぜん謎の死神の少女が現れる。所属もなにもわからないという少女センナを不審がる、一護の友で、本当の死神のルキアは、彼女の正体を探ろうとする。一方、ソウル・ササエティでは、ある力によって、現世との境界が破られ、ひとつに融合してしまい、最後には世界が消滅するという非常事態を迎えていた。その原因がセンナで、彼女は思念体として、あらゆるさまよえる魂をひきつける、触媒のような役割をもった、意識の集合体だったのだ。彼女を捕らえようと、死神たち、そして彼女の力を使おうとするソウル・ササエティに恨みをもつ没落貴族たちも現れる。しかし、一護は、センナを個人と認め、あくまで彼女を守ろうとし、事態は三つ巴の攻防戦となっていく・・・

最後どうなるかは、観てのお楽しみです。

この映画、二回目なのですが、ひとつのメッセージとして伝わってくるものは、

人はどうやって人になるのか

ということです。人と人の絆と言い換えてもいいかもしれません。つまり、意識の集合体である、「モノ」がたまたま人型をして登場し、死神たちも、没落貴族たちも、彼女を「モノ」としてしか考えません。しかし、一護だけは、彼女の人格を認め、「ヒト」として対等に扱おうとします。

一護がそうしたのは、人型=ヒューマノイドという外見ではなく、「あいつ、ふるえてた」の台詞から察するに、感情という内面で判断したからです。

肉体は魂の容器という考え方は、太古の昔から存在します。『自分』というのは、どこにあるのか、『自分』を『自分』たらしめるものは何か?多くの哲学者が自問してきました。

このアイデンティティの問題を、BLEACHの映画では、常に外部に設定しています。

ヒトとヒトとのつながりの間に、自己が生成される。

自己を規定するのは、自己と他者の間の相互作用内なのです。だから、他者を大切にすることは、自己を維持することにつながり、他者を傷つけることは、自己を破壊することにつながります。

と、単純に説明はできますが、現社会では、そうはいきません。他者を傷つけることによってしか、自己を見出せない人も多いからです。

この難しいテーマは、劇場版2、そして現在公開中の第3弾でもずっと続いているものです。

劇場版 「BLEACH MEMORIES OF NOBODY」 【通常版】 [DVD]

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