フェミニスト映画理論の援用 その1 

アニメーションをテキストとして、文学的方法をとって分析する仕方は、映画理論でも同様だ。ここでは、まず、フェミニズムの見地から、映画理論からテレビ学への流れをざっと追って行きたい。

映画が誕生した瞬間から、被写体としてのモノ、動物、人などのさまざまな動きを映し出した。映像を撮影する人が、圧倒的に男性が多かったこともあり、一つの物語が語られるほどの長さが撮影できるようになった頃から、男性の主人公と女性の相手役という構図が多くなってくる。(もちろん、男性だから女性抑圧的な映像しか撮れないと言っているわけではない。ジェンダーの力関係については、後述したい。)

主人公が圧倒的に画面を支配する場合、つまり、カメラの視線(the camera eye)が男性主人公の視線(the point of view shot)と一致する場合、客体(見られる対象)として、女性が取り上げられる。ここに、主体と客体の構図が出来上がる。

初期のフェミニスト映画理論は、この性に関する見る主体と見られる客体の分析が多かった。そして、結論的には、「家父長制的支配・被支配」というものをそこに読み、批判的に分析するものが圧倒的であった。この分析方法は、ちょうど小説をフェミニズムの視点で分析するのと似ている。違うのは、小説の場合は、文章の描写や登場人物設定などから分析するが、映画は、その映像や台詞、外見、しぐさ、人物設定、ショット、映像以外の情報(音楽など)から分析するという方法が取られることだ。

そこでよく用いられたのが、精神分析の方法だった。

映像のテキスト分析がある一定の成果を挙げると、次に問題になるのは、映画館で映画を観る観客である。小説と違って、ある一定の時間、閉鎖された映画館という空間で映画を観るという、時間と空間を共有した観客は、オーディエンスでなく見世物を鑑賞するスペクテイターという用語でよく呼ばれた。この用語の背景には、ちょうど野球などの見世物を、観客が一斉に見、楽しみ、あたかも共通の興奮と感動を覚える、という、集合的な意識が形成される、ということが想定されるという意味合いがあった。映画館では、その閉鎖性(いったん上映が始まったら、席を立つのはまれなので、映画館という箱に閉じ込められる。)と暗室効果(暗い箱の中に明るいスクリーンを見つめることで、集中力や集合的な興奮状態が作られやすいこと)が加わるので、「一体感」はより感じやすくなることが予想される。

スペクテイターにジェンダーの概念を持ち込んで、フェミニスト映画理論に新たな論争を起こすきっかけとなったのは、英国の映画研究者兼映画監督、ローラ・マルヴィーだった。のちに論争を呼び、彼女自身も訂正、加筆した'Visual Pleasure and Narrative Cinema'という論文が英国の権威ある映画研究雑誌Screenに掲載されたのは、1979年のことであった。

(続く)