フェミニスト映画理論の援用 その2

ローラ・マルヴィーが問題にしたのは、映画テキスト内に内包されたスペクテイターであり、実際映画を観ている観客自体を示しているのではない。したがって、後述する実際の観客・視聴者の英訳である、オーディエンスやヴューアーと区別するために、スペクテイターという用語が用いられる。スペクテイターには、普通は野球などを観戦する観客の意味があるので、辞書で引くとそういった意味しか示されないが、精神分析フェミニスト映画理論で使う場合は、特別な意味がこめられていることに気をつけたい。

さて、マルヴィーが主張したかったのは、単純に言ってしまうと、カメラの視線、主人公の男性の視点ショットが、場面を支配し、女性は客体(見られるもの、欲望されるもの)として表象される。それは、スペクテイターの視点をも支配し、男性中心的表象が、標準化され、女性は常に他者として構築される、というものだ。画面を支配する視点は、窃視症的視点と呼ばれ、スペクテイターはその視点を共有する。

これは、スペクテイターの一枚岩的な見方として、のち、いろいろな人々に批判されることとなる。けれども、マルヴィーの功績は、フロイト精神分析に端を発した、女性=欠如=他者としての見方を、映画分析に援用して、ハリウッド映画の男性中心的言説(生物学的な区分でなく)を批判したことだ。そして、マルヴィーを経由して、いろいろなフェミニスト批評が出てきたことは、大きな貢献であった。マルヴィーも、のち、この論文を修正し、スペクテイターの一枚岩的な区分に対する修正を行っている。

1980年代のフェミニスト映画批評は、フロイトラカン精神分析を用いた批評が圧倒的に多かった。英国の雑誌「スクリーン」にそのメジャーな論文が掲載されることから、精神分析を用いた映画理論は、「スクリーン理論」とも呼ばれることがある。

それに異を唱え、実際の観客に目を向けようとしたのが、カルチュラル・スタディーズの中で発展した英国のテレビ学であった。