マンガは越境する シンポジウム報告2

「マンガは越境する」シンポジウム
2)ディスカッション 国境を越えるメディアとしてのマンガ
大城房美(筑紫女学園大学

今度は、少女マンガのお話で、これも1970年代を少女マンガスタイルが成立した時期と捉えています。

少女というカテゴリーは、それが単に、幼少の女性を意味するだけではなく、消費者として、文化の発信者として、政治的なエージェントとして、日本から世界へ輸出されたのは、ごく最近です。でも、大城氏は、少女マンガの女性作家、女性読者を多く持つジャンルが、海外であまりなかったことで、新しい市場を獲得した理由があると見ます。

そして70年代は、西洋のイメージが少女マンガで多用された時期ですが、一番多いのは、日本人なのだけれど、欧米的でお姫様である主人公だったそうです。「日本人少女」の不在と彼女は言っておりますが、正確に言うと「日本的少女」といえるでしょう。国籍は日本人であっても、外見が欧米的なわけです。それは少女のあこがれ・ファンタジーの表象です。

面白かったのは、オバマ氏の少女マンガバージョンの絵に、「投票しよう」と銘打って描かれた絵。少女マンガの力は、あらゆる権力を無化してしまうことじゃないか、と個人的には思いました。

3)グローバル化への抵抗ー地方を描くということ
望郷するマンガー「博多っ子純情」が描く故郷 一木順(筑紫女学園大学
地方マンガの魅力に迫るー「クッキングパパ」を中心に 吉村和真京都精華大学

グローバル化が進むと、その抵抗として、ローカル化がおきることは、グローバリズムが進んだ初期段階から論じられてきました。つまり、グローバルスタンダード(主にアメリカ化)で、思考、商品などが平準化されていく中、地方を見直そう、とか、国の伝統を見直そう、などという力が働くことです。

このお二人の論者は、あえて地方を描くこと(この場合九州)で、変わり行く町並み、社会変動に対する抵抗だったり、地方、中央など、二つの領域の差があいまいになるとき、何が起こるのかを考えることに注目したお話でした。

このお話を聞いて、ブロンテ姉妹を思い出しました。生涯、ほとんど故郷から離れなかった彼女たちが残した小説は、今でも読みつがれるロングセラー。世界に通じる物語と思われない、ごく地方性の強い作品でも、中に流れる普遍的なメッセージや、中央から周縁化された視点というものの魅力は、時代が変わって、それぞれの読まれ方でつながっていくと思います。

ジェーン・エア(上) (新潮文庫)[rakuten:book:11924599:detail]