実写映画の中の二次元アニメ

「実写映画の中の二次元アニメ」

 以前、アニメーションとは何か、という定義をしたときに、「物が動く」ことが一応のアニメーションの定義だと書いた。今日は、実写とアニメの境界について、思っていることをつづってみよう。

 そもそも「人が動く」のか「ものが動く」のかで、実写、アニメーションなどと区別されているが、動画という意味では両方とも同じようなものだ。それが、同じ場で機能したらどうなるか。

「同じ場」といっても、種類はさまざま。例えば、実写がメインで、実写の人の動きにアニメが挿入される場合。人形アニメ(三次元)を挿入するのは、「キングコング」や「シンドバットの冒険」など、ハリー・ハンセン作品が有名だが、そのほかに二次元アニメ(いわゆるセル的アニメ)を挿入させたりする映画もある。

それから、最近の実写映画でよく使われる、画面が変わって二次元アニメーションが挿入される場合。「キルビル」IIにも使われ、特にタランティーノ監督がじきじきに日本のアニメ会社に依頼し、話題になった。

そして、以前少し触れた、湯浅監督が試みた「マインド・ゲーム」などのハイブリッドもの。実写、2D,3Dアニメがごっちゃになって、一つの映像世界を作り上げている。

リアルな映像が可能になった現在、実写映画に3DCGアニメーションで人物と合成するのは、珍しくなくなった。SFものは特にそうだ。だから、アニメと実写の差という議論も、あまり意味をなさなくなってくると思う。

しかし、今日考えてみたいのは、二つ目のパターンである、実写が語りのメインになっている映像に、二次元アニメの場面が挿入される時。特に、その際に展開される語りのモードとトーンの問題だ。

具体的に例を挙げてみよう。
1)「キルビル」2
2)「下妻物語
3)「メゾン・ド・ヒミコ

まずはこの3つの語り(ナラティブ)を考えてみたい。

1)「キルビル

極道の父親を目の前で殺されたシーンが、二次元アニメで回想シーン(バックグラウンドの説明)として、挿入される。割とリアルな絵柄であるので、見ているほうは意識せずに、「これは少女時代の話だ」と解読することが可能。

では、これを実写で、他の子役が演じたときとどう違ってくるのか。

実写で回想シーンをするときは、たいてい画面に霧をかけたような状態で演出したり、少しメインの時間の流れの時の画像ではないものを使ったりするのが、よく使われる。

その異化の効果が、アニメにもでる。限りなくリアルなのだけれども、どことなく架空のもののような感じ。「キルビル」の場合は、非常に悲惨な場面だが、どことなくリアルさが失われて、それと同時に、彼女のトラウマもリアル感がなくなってくる。敵役の彼女の実態も、このアニメの前と後では、変わっていることに気付くかもしれません。

実写の映像の中にも、「マンガ的」な非現実的で、誇張的な表現があるので(目をつつくと眼球が取れてしまうとか)、全体的にマンガチックとは言えるのだが、アニメが挿入されることで、時間に重層性が生まれ、それまでの語りのトーンが、リアルなのに、非リアルなものととらえられるような不思議な膜が生まれている。

2)「下妻物語

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では、リアルなアニメでない場合はどうなのでしょう。「下妻物語」では、イチゴの作り話がアニメとして登場します。そのとき桃子は「話が長いのでアニメにしてみました。」と、画面を統括する進行役に変身してしまう。それも観客のほうへ向いて話すので、語られているはずの桃子が、一瞬、語りの外部へと移動する。

ここで挿入されるアニメはデフォルメされた、完全アメコミチックな絵柄で、顔も漫画的。少しコミカルでもある。この映画作品全体が、コミカルなものなので、ナラティブトーンとしては、同じものが流れているが、桃子の語りの位置、アニメの挿入による喜劇性の強調、そして、ラストで実は架空の話だったというオチとのアニメ=架空の物語の表現方法のつながりが見えてくる。

3)「メゾン・ド・ヒミコ」

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この映画では、本当に急に一瞬だけアニメが挿入される。メゾン・ド・ヒミコの住人が、孫娘の好きな魔女っ子アニメの変身の真似をするときだ。何のマネをしているのか、それが似ているのか、似ていないのか、その魔女っ子アニメを知らない観客は見当がつかない(それは映画の中の人物も同じ)。そのとき、主人公の女性が真似して見せてあげるのだが、すかさず同じ変身シーンのアニメが挿入されて、彼女の真似が本物だということが、観客に伝わるのだ。

ここは、一瞬、笑いが起きるところ。でも、実は、この真似をマスターして、孫娘に見せる前に、その彼は脳卒中で、意識を失ってしまうのだ。迎えに来た息子夫婦と孫娘は、彼が性転換手術を受けた事は知らない。そのせつない別れのシーンに、孫娘は、さきの魔女っ子のコスチュームと魔法の杖を持って、車に乗っている。

ここで、さきほど笑った喜劇性が一挙に悲劇性へと転換します。さきほどがコミカルだったゆえ、いっそう、彼の悲劇と孫娘の無垢さが強調されるのだ。

このほかにも、いろいろなパターンがあり、各作品ごとに語られるべき問題だろうが、ここで問題にしている、語りのトーンとモードの問題は、観客の主体の形成とも深くかかわっているので、いずれもう少しきちんと考えてみたい。