研究ノート 孤独のヒーロー

「孤独のヒーロー」

アニメーションの原作から、一つヒントをもらいましょう。

例えば、日本アニメの原作は、漫画が圧倒的多数を占めます。アニメ会社のオリジナルや、ライトノベル、ゲームが原作のものもありますが、やはり漫画原作が一般的でしょう。

その漫画が掲載されているのが、少年漫画雑誌などの週間誌、月刊誌です。今回は、少年ヒーローについて、考えてみるので、少年漫画雑誌に焦点を当ててみましょう。

類型化を行った三作品とも、「少年ジャンプ」という雑誌に掲載されていた漫画が原作でした。週間漫画雑誌には、他に「マガジン」「チャンピオン」、新しいものだと「ガンガン」などがありますが、ファッション誌などと同じく、対象読者層、とりあげるテーマが違っています。

くだんの三作品が掲載されている「ジャンプ」のテーマは、ずばり「友情、努力、勝利」。必ずしもそれに当てはまらない作品もありますが、基本路線はそれです。しかも、それを踏襲している漫画にヒット作が多いのは事実です。

ヒーローが孤独であることは、前回も指摘しましたが、「努力」する姿勢から、ヒーローを理解してくれる仲間ができ、「友情」が生まれます。敵と戦って、お互いの力量を認め合い、奇妙な友情が生まれる、というパターンもあります。(殴りあいのけんかをしたあと、二人で寝そべって、なぜか笑って、「おまえ、すげーな」「おまえこそ」「ハハハハハ(笑)」というベタな青春ドラマのようなものを想像してみて下さい。)

そして、たびたび敵が現れ、ヒーローたちを苦しめるわけですが、最終的には「勝利」を得るのです。

子供たち(特に男児)に伝えるメッセージとしては、非常にわかりやすく、かつ合理的です。それにそってヒーロー像も出来上がってくるわけですから、作品や作者が変われども、ヒーローに共通点が見られるのも、別段不思議ではありません。

作られたヒーロー像を、読者が後天的に受け入れ、それがヒーローであるものとして取り入れている、としたら、集合的無意識としての神話的原型の原則を崩せるかもしれません。

物語には、原型のようなものがあり、世界各地で似たような物語が作られている。それを人間が原始的にもっている集合的無意識と言われます。神話がそのいい例です。この説を採ると、結局主人公は、もともと人間が持っている無意識を具現化したものにすぎない、ということになります。

けれども、本当にそうでしょうか?

それは、すぐに否定できます。非常に単純に言ってしまえば、あるべきヒーロー像を「よし」としないひとも存在するし、「嫌い」と思う人もいるわけですから。それをただ例外として片付けてしまうには、あまりにもお粗末です。

後天的に構築されたもの。そういう立場で、考えたほうが生産的です。そして、そのようなヒーロー像を作る事によって、どういった現象が産まれ、私たちに影響を与えるのか。大事なのは、どういうヒーロー像があるのか、ではなく、どういうヒーロー像がいいものと思わされているものは何か、そしてどうやってそう思わされているのか、ということです。

そういうものの考え方は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーという人が、試みています。アニメと関係ないと思われるかもしれませんが、一度フーコーを読んで見て下さい。

フーコー (「現代思想の冒険者たち」Select)

フーコー (「現代思想の冒険者たち」Select)