日本アニメーション学会理論・歴史研究会 報告2

日本アニメーション学会理論・歴史研究会 報告2」

魔法少女TVアニメーション番組の「フェミニスト・テレビ学」的読みの可能性」 須川亜紀子

第二部は、社会文化的な考察を交えた、「魔法少女テレビアニメーション」の分析と、女性の視聴者の分析に関する発表。

まず、フェミニズムジェンダーというのは、日本では特に誤解が大きく、フェミニズム=男性批判、ジェンダー・フリー=男らしさ、女らしさの消失、と受け止められる例が非常に多いので、概念と用語を簡単に紹介。ここで強調されるのは、フェミニズムは英語ではfeminismsと複数形で表されるのが、通例となってきていること。それは、フェミニズムの中でも、ラディカル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム、リベラル・フェミニズムなど、いろいろな立場と思想があるためだ。今やフェミニズムを一枚岩的に語ること自体、ほとんど無理である。

ジェンダーは、生物学的な性であるセックスと区別するために用いられた用語であるが、今、ジェンダーは言説に先んじて存在するようなものでなく、行為遂行によって構築されるものだという考え方が主流になっている。便宜上、「社会的に構築される性別(広辞苑)」と日本語で説明したり、そういう意味で使用されている例もあるが、厳密には、セックスを自然化するために用いられる装置であり、セックスもまた、構築されたものなのだ、というJ.W.スコット、J.バトラーらの論説がある。

発表者はこれを支持するが、実際、日本では(おそらく世界の一般的に考えられているものでは)、ジェンダーは社会的に作られる性だと広く理解されている。しかし、発表者は、ジェンダーを装置として見、ジェンダーというフィルターをかけると、作品分析や視聴者分析にどのような意味を生成するのか、に注目し、あえて、『ジェンダー本質主義的」な「女性向けジャンル」としての魔法少女テレビアニメや「女性視聴者」にメスをいれる。

テレビ学で注目するのは、実際の個々の視聴者とその視聴体験である。精神分析学的映画理論で多く見られた、テキスト内に構築される観客(spectator)ではなく、どうテレビを見、どう消費し、反応するのか、実際に見ている人が重要になってくる。

では、『魔法少女テレビアニメ番組』とは何か?発表者は、これを呪文を唱えて発動する魔法を使う、平均12歳の少女が主人公の作品としている。その特徴としてあげられるのは、機能している家族(両親は健在)、隠された高貴な出自である魔法の国のお姫様、もしくは中上流階級の娘、洋風でしゃれた一軒家に住んでいて、都市部に居住する。年少者(弟または妹)またはペットをもつ。などがあげられる。

また、そのジャンルを取り上げる価値としては、少女向け番組としての放映の歴史が長く、長期的スパンで視聴者調査をするのに、都合がいいこと、西洋のアイコンである魔女を使って、魔法という超自然能力を駆使するというテーマで一貫している例が、他国にはほとんど見られない、という理由が挙げられる。

さて、『魔女っ子メグちゃん』(1974-75年)である。

魔女っ子メグちゃん DVD-BOX1

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この作品は、東映動画作で、主人公は、魔法の国の時期女王候補で15歳のメグとノンが、人間界で修行し、その修行の成果でどちらかが女王に選別されるというもの。メグもノンも、人間界に降り、人間と結婚した魔女の家庭に、娘として暮らし、学校でも家庭でも、いろいろなことを競いあうことになる。

企画段階では、1)無国籍、2)ライバル、3)おしゃれが基本コンセプトだったというこの作品。無国籍性といえども、街並みや主人公たちが住む家はおしゃれで、日本人の考える欧州風。メグはひらひらのミニスカートにハートのペンダントを身につける、かわいいけれどもおてんば(弟のいたずらに対してなど、男言葉をよく使う)、ノンは青いアイシャドーでバイクを乗り回すクールなキャラクターに設定されている。

注目すべきは、セクシュアリティの表象だ。メグは常に弟の性的からかいの対象となっていて、異性愛主義的性的欲望の対象として表象される。ノンは、からかいの対象としては設定されないが、大人の身体を背負う少女として設定される。(アイシャドーなどはその例)

例として、第8話「わがあこがれのメグ」があげられた。メグ、ラビ(弟)、アポ(妹)がプールに遊びに来る。メグに一目惚れしていた、外国の大使の息子ダニーが、メグを追ってくる。ダニーに恋心を抱くノンもこっそり後をつけている。

ここでショット分析が行われた。ラビは姉メグの着替えを盗撮しようと大きなカメラを抱えている。(しかし、入った時には着替えが終わっていた)。相変わらず、異性愛主義的性的欲望の対象として表象。また、ダニーがメグの泳ぐ姿を見つめる次のショットで、ノン(ビキニ姿)がダニーを見つめるショットがつづき、欲望の視線が明確に表現されている。

ダニーとメグは、結局デートすることになるのだが、ダニーが急に手を握ってきたことに、メグは驚き、拒否をする。異性愛主義的性的欲望の拒絶と理解することができる。これだけなら、単なるロマンス物語なのだが、このシーンのすぐ後に、またもやノンがやってきて、ダニーに迫るシーンが挿入される。

ダニーはロマンティックな雰囲気を魔法で作り出し、迫ってくるノンを拒絶する。同じ異性愛主義的性的欲望の拒絶なのだが、のちに、メグがダニーを受け入れるのと対照的に、ノンは拒否されたまま、別れを迎えるのだ。

男性から女性への恋愛至上主義であれば、受容可能なものとして表象されるのだが、ノンの例のように、いくら「本気だったのに!」と号泣しようと、女性から男性への同じ行為は、受容されないことが象徴されている。

この作品が放映された70年代というのは、『アンアン』『ノンノ』などのビジュアルに訴える女性雑誌が創刊し、経済的に自立し、一人暮らしする女性の暮らしを特集したり、女性の一人旅特集をしたりと、女性の自立が称揚され、表象され、洗練されたいいものとして価値観が構築されていった時期だった。同じく、女性の高学歴化、長期就業化、晩婚化も進み、女性が社会進出することが、日常となりつつあった時期にあたる。

第二波フェミニズム運動の初期段階であり、身体やセクシュアリティに関しても、たとえばピル解禁に対する運動などもあった(しかし、74年厚生省はピル解禁を不許可としている)。

性的対象としての少女の身体と、選択権の問題について、『魔女っ子メグ』は何度もそれを問いかけている。

(つづく)